ロックなバショ

吾妻教会

2018.10.30

吾妻教会の始まりは、明治期にアメリカで受洗したキリスト教の教えをベースとして、同志社英学校(現同志社大学)を創設した新島襄(父・安中藩士)の薫陶を受けた前橋教会牧師・海老名弾正(後に熊本英学校・熊本女学校創設、第8代同志社総長)が、安中教会で1885(明治18)年、実業家・山口六平(1849-1906年)ら家族に授洗したことがきっかけです。
六平は1849(嘉永2)年、原町生まれ。明治に入り、原町に私財を投じて小学校を開設(1873年)したほか、中心メンバーとして吾妻畜産会社(1875年)、薬師岳牧場(1877年)、吾妻精糸会社(1879年)を設立し、吾妻地域の発展に尽力していました。
六平は群馬県議会議員も務めました。新島襄をはじめ、襄と親交で受洗した先輩議員・湯浅治郎(安中出身、日本初の私立図書館「便覧舎」開設)との出会い、前橋英和女学校(現共愛学園)の設立、発展に尽力した蚕糸業の深澤利重らクリスチャンの多い蚕糸業関係者とのつながりが、入信に大きな影響を受けたとみられます。
受洗後の1886(明治19)年3月には自宅を開放して、安中出身の伝道師・白石村治を招き、原町に吾妻英学校を設立(同年7月)するとともに、キリスト教の伝道活動を促しました。
そして、六平の伝道活動は次のステージへ。1887(明治20)年9月、原町に木造平屋建て洋風の原町会堂(広さ19.25坪)が完成。伝道活動が盛んだった名久多会堂(高山村尻高)に先駆けて捧堂式を行い、牧師・沢田義武を迎えた1889(明治22)年5月に「吾妻基督教会」として産声を上げ、教会設立式を実施しました。
ところが、吾妻基督教会は1894-1903年の間、牧師不在となりました。1904(明治37)年、待望の牧師・片瀬清次が招かれ、翌年、中之条町に新会堂が造られ、「中之条教会」(中之条教会の正式設立は1927年)と呼ばれ、説教会が水曜・中之条、日曜午前・原町、日曜午後・尻高で開催されました。
日本の開国、明治維新とともに、吾妻地域をはじめ、地方の農業地域を巻き込んで近代化の一翼を担った養蚕、製糸、織物。これらの業と並行して、地方にもキリスト教が伝わり、蚕糸・織物業を営む庶民の間に徐々に浸透しました。
中之条町の会堂が再び原町に戻ったのは、大正期に入ってからでした。川村善七が1916(大正5)年、自宅隣接地を提供して、友人と新会堂を造り、翌年2月、献堂式が挙行されました。その後、会堂は同じ原町の現在地に移転・建設され、1998(平成10)年5月、「日本キリスト教団吾妻教会」として献堂式を行いました。
日本に現存している最も古いキリスト教会は、世界文化遺産の大浦天主堂(長崎県)です。群馬県では名久多教会が最も古く全国8番目、吾妻教会は県内2番目、全国でも9番目に古い現存する教会とされています。
【参考資料】藤岡一雄著「キリスト教と前橋」、杉本星子著「日本の近代製糸業とキリスト教精神」、吾妻教会HPほか

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