ロックなヒト

元群馬No.1大富豪「加部安左衛門」

上州の三大臣の一人と言われた富豪。天明の浅間山大噴火とその後の大飢饉では吾妻郡内各地に多額の寄付と米を惜しみなく供出しました。
加部安左衛門は江戸時代から明治時代にかけて、信州から江戸への物資輸送、草津温泉、川原湯温泉などを往来する交通の要衝だった旧大戸村で、代々世襲されてきた加部家当主です。
加部家は農業のかたわら、酒造業や鉱山業、金融業、麻の仲買商などを営み、長年にわたって大戸関所の関守(せきもり=関所の番人)を務めたほか、地域社会にも献身的に貢献し、「加部安(かべやす)」と称され、多くの人に親しまれました。上州(現在の群馬県)の三大尽(だいじん=お金持ち)として、「一加部、二佐羽、三鈴木」と呼ばれ、その筆頭に挙げられました。
 特に、7代・安左衛門重実、8代・安左衛門光重が商売に成功し、1783(天明3)年の浅間山大噴火、1784(天明4)年の冷害・凶作などの際は財産を惜しまず使い、被災した吾妻川流域の多くの住民を救ったと言われています。また、1800年代前半の10代・安左衛門兼重も、足尾銅山(栃木県)の復興、江戸城改築の木材調達、飢饉(ききん)に苦しむ住民支援などに尽力しました。
幕末から明治に生きた12代・安左衛門嘉重は、開国と重なる横浜(神奈川県)開港の1859(安政6)年、横浜に進出し、生糸や岩島麻の売買を中心にした商人として横浜屈指の広い店を構え、「加部長屋」と呼ばれました。商売は7年ほどでしたが、同じ「浜商人」として、呉服店「越後屋」(現三越)を開店した三井家をはじめ、生糸商人で店舗が「銅(あかがね)御殿」と呼ばれた中居屋重兵衛(嬬恋村出身)らとともに、往時の横浜で輝きを放った一人と言えます。
 安左衛門嘉重は俳諧の世界でも、その才を発揮し、「加部琴堂」の俳号で有名です。
 大戸地区にあります大運寺境内は、加部家屋敷跡の一部です。屋敷跡などは「加部安左衛門関係遺跡」として町指定文化財になっています。
【参考資料】丸山不二夫著『加部安左衛門“江戸期在郷商人の事績”』(みやま文庫、2010)、高橋政充著「豪商 加部安左衛門-上州一の分限者」(一般財団法人群馬地域文化振興会発行『ぐんま地域文化』第49号収録)

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